開発コンサルタントとして世界で活躍する傍ら小説家としても第一回城山三郎経済小説大賞を受賞するなど多才な松村美香さん。今回は
①モンゴル訪問の実績、仕事の概要
②モンゴルについての印象
③モンゴルを舞台とした「利権鉱脈」で伝えたかった事
④なぜコンサルタントと並行しながら小説を書こうと思ったのか
の4点をお伺いしました。松村さんは終始とてもパワフルでユーモア溢れる素敵な方でした。今回のインタビュー記事を通してそんな松村さんが伝われば幸いです。
―プロフィール
2008年『利権聖域 ロロ・ジョングランの歌声』で第一回城山三郎経済小説大賞を受賞。
東京都生まれ。中央大学経済学部卒。筑波大学大学院で修士(経営学)取得。
—経歴
1981年 中央大学経済学部(~1985年)
1985年 ボピットピムク職業訓練高等専門学校
日本語教師(青年海外協力隊)(~1988年)
アメリカ語学留学(4か月間)
1993年 海外貨物検査株式会社/農産物流通分野の開発コンサルタントとして
ポーランド、モンゴル、カンボジアなどの市場経済化支援のプロジェクトに参加(~2001年)
2001年 筑波大学経営・政策科学研究科経営システム科学専攻(経営学修士)修了
2001年 株式会社コーエイ総合研究所(日本工営グループ)に転職し、
交通・電力・地域開発・ジェンダー・医療などのプロジェクトに参加(~2016年)
2008年 『ロロ・ジョングランの歌声』でダイヤモンド社主催の第一回城山三郎経済小説大賞受賞。
(『利権聖域』に改題してKADOKAWAで文庫化)
2012年 モンゴルを舞台とした『利権鉱脈』出版
「アフリカッ」(2013年)「老後マネー戦略家族!」(2017年)中央公論新社から出版
1)モンゴル訪問の実績、仕事の概要
松村さんが初めてモンゴルを訪れたのは1994年の流通調査でした。
当時国際関係の仕事は年齢主義・キャリア主義であり、40歳になって初めて一人前のプロとして扱われる業界で30代の松村さんは仕事を得る事が容易ではありませんでした。そんな中初めて入札を勝ち取ったのがモンゴルであり、その為モンゴルはとても思い入れが強い国だと松村さんは話します。
松村さんの担当は農産物流の調査だったので、生活そのものがどうなっているのかを調べる必要がありました。
「例えばフェルトはどう作られているのかとか。フェルトの下、カーペットの下に動物のフンが敷き詰められてたりとか。燃料はどうなっているのかとか。燃料を一緒に拾いに行った事もあるんです。籠を背負ってフンを一緒に集めてみたりすると、現地の方たちの心を開いて色々な話をしてくれます。」
私はそうゆうのが好きなんです、と無邪気に笑いながら当時の仕事の様子を教えてくださいました。
2)モンゴルについての印象
市場調査の為モンゴルに松村さんが訪れたのは社会主義が崩壊し、市場経済に移行した ばかりのモンゴルでした。無秩序な青空市場での取引が増加していたモンゴルで松村さん達は市場整備の必要性を唱え、市場流通の問題点を様々な観点から調べていました。
「私警察にも行ったんですよ。どんな事件が起こっているかという話も色々聞いて。社会主義時代は自由取引を認めていませんでしたから、青空市場はもともと非合法のブラックマーケットでした。体制が変わり人々が大勢集まるようになった青空市場は社会の必然でしたが、ルールがない状況で衛生的にも劣悪でした。昼間に営業して、夜は閉めて、朝開けるといった感じなんだけど。朝開けて、青空市場に行くと必ず1人凍死していると言われたんですよね。」
「誰かに何かされたという事だけでなく、もう酔っぱらって寝込んでそのままいってしまうかんじ。それがほぼほぼ毎日なんです。と言われたことが記憶にあって。ああ、やっぱりすごい所なんだな。一歩間違えると死んでしまう所なんだなというのは思いました。」
上記の様な事例を知り、モンゴルに対してさらに寒い国という印象をもった松村さん。この印象が「利権鉱脈」にも繋がっているそうです。
3)利権鉱脈という小説で伝えたかったこと
松村さんはモンゴルを舞台にした「利権鉱脈」の前にもインドネシアを舞台にした「ロロ・ジョングランの歌声(文庫化で利権聖域に改題)」という小説も執筆されています。「ロロ・ジョングランの歌声」にて南国の暑さを描いた為、寒さについて執筆したくなりとても寒い事が印象的な国モンゴルを舞台に「利権鉱脈」を書きあげました。また「ロロ・ジョングランの歌声」は政府開発援助(以下ODA)の入門的な話、「利権鉱脈」ではもう少しODAの構造的上の問題点・課題点も含めどの様にODAが歴史を刻んできたのかといったところを残しておきたかったと、松村さんは話します。
「四省庁体制とか多分ほとんどの人はもう知らないと思うんですよ。どういう風にODAが実施されていたかとかね。」
「新聞とか雑誌とかマスコミが取り上げる事ってすごく表層な部分なので、すごく短絡的になってしまう。」
まあ出来る限り公平に書いたつもりなのよ、と松村さんはいたずらっぽく笑顔を浮かべました。
4) なぜコンサルタントと並行しながら小説を書こうと思ったのか
「私コンサルタントの仕事には誇りを持っていたし、好きなんだけど、やっぱどっかで劣等感も持っていたんですよ。ずっと。」
業界の文系出身者は英語を自在に操れる者ばかりで、特に松村さんの後輩世代は円高が進んだこともあって留学経験者が増えました。理系出身者はインフラ系が強い国際協力で橋やダムを建設する事で貢献出来ました。松村さんの武器は統計経済だったので何でも屋として任されていましたが、留学経験が豊富でない事、モノをつくれない事の二点において専門職としての自信が持てなかったと言います。
また、JICAから求められる報告書は「現地の経験」ではなく「学術論文」的な引用を重要視する様になり、コンサルタントが思った事や考えた事は必要ないと遮断されてしまった松村さん達は息苦しさを感じるようになりました。
「そうすると人間が生きている報告書じゃなくなっちゃう。」
「私も段々統計しか載せなくなってきて、人間が生きているというよりは統計が生きているという感じになってしまった。」
そこに矛盾やストレスを感じましたと振り返ります。
「もっと表現したいことがある。もっとその時の匂いとか思った事とか。どこかで表現したいし、知ってもらいたい事はここじゃない。日本の人に知ってもらいたいのは、こんな報告書じゃない。どこかで別の物語が並行して存在するという事。一つのプロジェクトでもコンクリートがコンクリートから作られている訳じゃなくて、それは結果であって、その陰でどれだけの人間が動いているか、どれだけの人間が感情を持ちながら生きているかっていうのを見て欲しかったし、知って欲しかった。」
コンサルにも問題のある人がいるかもしれないけど、それなりに自分達の正義がある。マスメディアが突然外側から来て分かる正義ではない。もっと泥臭い人間の生きざまがあるんだという事を表現したかった、と松村さんは溢れてくるものを一つ一つ押し出す様に続けました。
松村さんはこうしてモノを書く強みを活かし、多忙なコンサルタントの仕事と並行しながらも、もっと日本の人に知って欲しい事を表現し続けています。
最後に
何よりも燃料として使うフンを一緒に収集したお話がとても印象的で面白く、松村さんのお話には人の“温かさ”が感じられました。松村さんとのインタビューを通し、正解は一つではない事、人にはそれぞれの強さがる事を再発見させられました。松村さんのモンゴルでのお話、利権鉱脈についての思いももちろんなのですが、個人的に松村さんの人柄に心を奪われてしまったので、一番松村さんの考え方が垣間見える最後の質問に熱が入り過ぎてしまったかもしれません。コンサルタントと小説家の両方でご活躍され多忙な中、貴重な時間をインタビューに割いていただき、本当にありがとうございました。
執筆:室田