100万個の石鹸がかけた虹の橋

 

取材日

2021年10月25日

 

取材対象

千葉経済大学 名誉教授

中央大学 名誉評議員

NPO法人 日本・モンゴル虹の会理事長

藤本 幹子様

 

記事作成者

中央大学清水ゼミ 榎本 麗恵

 

藤本様のご紹介

1957年、中央大学経済学部卒業。卒業後、千葉経済大学(旧千葉経済短期大学)で教壇に立つ。1989年、夫の藤本正氏と伴に初めてモンゴルに渡る。1991年「日本・モンゴル女性文化交流協会」を結成し、モンゴルの女性に100万個の石鹸を送ろうという運動を始める。その後もモンゴルへの支援を続け、2004年に青少年の健全育成・女性の地位向上を支援することを目的とする「特定非営利活動法人 日本・モンゴル虹の会」を設立。2010年、モンゴルにおける最高の国家勲章の1つで外国人に授与される勲章の中では最高位にあたる「北極星勲章」を受章。2016年旭日双光章を受章。

 

取材趣旨

筆者はモンゴルで活躍する日本人について調べていたところ、当ゼミの教授より「モンゴルに100万個もの石鹸を送った日本人女性がいる」と伺ったことがきっかけで藤本幹子様のことを知りました。

 

筆者はモンゴルで活躍する日本人を取材してきたが、その多くはお仕事の関係でモンゴルに関わる方でした。そのため、個人でモンゴルにて活躍されている藤本様を知り「どのようにしてモンゴルと出会ったのか」「どうして石鹸なのか」「その背景にどのようなストーリーがあるのか」などの疑問が生まれました。

 

ぜひお話を伺いたいと思い取材機会を設けさせていただきました。

 

 

 

取材内容

 

Q:モンゴルとの出会いのきっかけは?

 

A:「あなたの好きな歌で出てくる真っ白な砂の大地に行ってみないか?」という夫の藤本正からのお誘いでした。1989年、著名な弁護士であった夫の藤本正は、日本弁護士協会からモンゴルで起きていた民主化の支援ができるかの調査を依頼されたのです。そこで、私と夫はモンゴルに渡る事になりました。

 

 

Q:なぜモンゴルに100万個の石鹸を?

 

A:乳幼児の衛生環境を改善したかったからです。

初めてモンゴルに渡った際に見た光景を私は今でも忘れることはありません。豪華絢爛なホテルの地下と繋がっているマンホールの下に寒いモンゴルの夜を乗り越えようとホームレスの子供達が多く集まっていました。更に、一般家庭でも衛生環境が悪く病気にかかってもおかしくない状況でした。戦後の日本の画をモンゴルでまた見た私は、すぐにモンゴルに石鹸を送ろうと思ったのです。

戦後まだ子供だった私は、自分と同じくらいの子供が伝染病になり死んでゆくのを見ていました。私の母は家に残っていた少しの石鹸を、焼け跡ですすけた自分の顔を洗いもせずに子供の為に炊事する自分の手や私たち子供の手を綺麗に洗っていました。不衛生であることがどんなに恐ろしいことか私は小さい頃からわかっていたのです。

乳幼児と一番多く接する母たちの手を綺麗にすれば子供が伝染病になることもなくなる、そう考え日本から石鹸を送る運動を始めたのです。私は石鹸を集めるために、モンゴルの現状を知り協力を仰ぐために日本の女性たち向けに講義を開きました。また、駅でチラシを配り、商店に石鹸を集める箱を設置し、町から町へと渡り歩きました。

その努力の結果、目標を超える120万個の石鹸をモンゴルに送ることができたのです。

 

 

Q:上記の活動の中で苦労したことは?

 

A:石鹸を集めるのも大変でしたが、石鹸をモンゴルまで運送するのが一番大変でした。当時の日本は、海でも空でもモンゴルまでの直行便がなく、中国から乗り換える方法しかなかったのです。また、その包装費や運送費の捻出も苦労しました。

石鹸をモンゴルまで運ぶのに、コンテナーを使いました。一つのコンテナーに石鹸が10万個から13万個くらいの石鹸が入ります。それを横浜港より中国の天津へ、天津から鉄道で北京を通過し、コビ砂漠を通って首都のウランバートルまで約一ヶ月半の時間とおよそ60万円を費やさなければならなかったのです。また、横浜港までの宅急便代や倉庫代など、無料で集めた石鹸を送るのにおよそ800万円ものお金がかかったのです。

主婦達で結成された虹の会の会費ではとても賄えなく、再び寄付を呼びかけるのも心苦しい中、外務省の国際無償資金援助という制度を知りました。その結果、届け先であるモンゴル女性連盟に日本政府から石鹸の運送費援助がなされたのです。

こうしてようやく石鹸は国境を渡りモンゴルまで届けることができました。

 

 

Q:「虹の会」の今までの活動?

 

A:上記の石鹸を送る活動以外では、モンゴルのウランバートル市に職業訓練校「虹の学校」を開校しました。上記で、初めでモンゴルに渡った際のことをお話したように、モンゴルの貧富の差は激しいです。そこで少しでも貧しい女性達を救えればと思いこの学校を開校しました。

この学校は、家庭環境に恵まれない若い女性に技術を身につけ自立してもらうために裁縫を教える職業訓練学校です。卒業生は現地の工場に務めるなど、貧困から脱却することができます。

 

 

Q:お話を伺っていると女性への援助に注力しているようですが、その原点は何ですか?

 

A:千葉経済大学で見た優秀な女子学生が原点です。

当時の千葉経済大学は短期大学で、学生のほとんどが女子学生でした。彼女達は勉強熱心でとても聡明な学生でした。しかし、女子というだけで短期大学にしか通わせてもらえず、理想の就職先に就職することができませんでした。私はこの状況に強い違和感を抱き、彼女達に豊かな人生を歩んで欲しいと願っていました。どうしたら優秀な彼女達の力を証明できるのかと考え悩みました。

様々な制度などを研究した結果、ようやくアメリカで導入されていた「秘書検定」という資格の導入に辿り着いたのです。そこで、私は実際にアメリカに渡り秘書検定について学びました。

アメリカに渡ったある日、私は秘書検定を取得した副社長の秘書である黒人女性に会いに行きました。そこで私は衝撃な光景を目の当たりにし、その驚きは今でも忘れられません。なんと副社長秘書であった黒人女性は白人男性に指示やアドバイスをしていたのです。言うまでもなく約半世紀前ものアメリカは黒人への差別が根強くありました。そんな中、黒人の女性が白人男性より上に立つことは衝撃的なことでした。

帰国後すぐに私は秘書検定の設立に携わりました。そして、1972年(昭和47年)、 文部省監督の下で「OL職業技能検定」(現 秘書技能検定)がスタートしました。

私の生徒はもちろん、多くの女子学生が受験し自分の実力を証明することができるようになったのです。

このこと以来私は女性の支援を続けております。

 

 

オススメの観光地について

 

南ゴビ砂漠がオススメです。

 

私がモンゴルに渡るきっかけとなった歌の歌詞のような「真っ白な砂の大地」が広がっているからです。そこの空は青く高々と広がっており、空気は澄み切っておりました。日本では見られない光景がそこには広がっています。広大な砂漠でラクダに乗りながらゆっくりと過ごす時間は癒されましたね。

 

また、藤本様の自己の著書より南ゴビについて以下のように述べています。

「あの辺りは、今は1500メートルくらいの高原ですが太古は海だったそうで、今でも貝殻が出てきます。恐竜の骨がぞろぞろ出てくるところも近くにあります。私たちの一生は短いけれども、地球は本当に長生きしているのだと南ゴビ砂漠に立って思いました。」(藤本幹子(1996年)モンゴルに虹をかける)

 

筆者も藤本様同様に南ゴビ砂漠がオススメの観光地です。実際に南ゴビ砂漠を訪れた際に、広大で遥か昔より存在する自然の前で人は主催者ではなく、あくまで過客だと気付かされた記憶があります。

今まで経験した旅の多くは現地の食や物、文化に触れることがメインでしたが、モンゴルの南ゴビ砂漠はそれらに加えて「地球」を知れるところです。是非一度は行ってみてください。