社会主義時代から累計200回以上のモンゴルを訪問した 柳澤さんが語るモンゴルの魅力とは?

柳澤徳次日本モンゴル親善会長

経歴

昭和9年生まれ、新潟県出身。新潟県立津川高校(現県立阿賀黎明中学・高校)卒業。東洋レーヨン、同盟通信社勤務などを経る。

出版社の「労働資料調査会」、「総評資料頒布会」を経営し、『写真集 ベトナム戦争』(1970年)、『写真集 新しい中国』(1971年、岩井章監修)、『総評労働運動の歩み』(1975年、同)などを発行する。

モンゴル関係では1968年に日本モンゴル親善協会を創設し事務局長に就任。1969年に最初のモンゴル訪問の後、今日までに200回以上モンゴルを訪問。1973年、モンゴル観光中心の旅行会社「サントクエンタープライズ」を創業。

現在は日朝文化交流協会理事長、日本対外文化協会常務理事、日本モンゴル親善協会理事長を務めている。(小野)

 

 

インタビューの目的

50年以上に渡りモンゴルと深く携わってきた柳澤さんにとってモンゴルはどのような場所であるのかを認識するために、モンゴルとどのように関わってきたのかを伺いました。そしてゼミ活動において、異なる文化を背景に持つモンゴル人との交流を推進していくことは必要不可欠であると考え、そのために、柳澤さんの貴重な経験から得たモンゴル人との交流にあたり重要となる要素を伺いました。(小野)
古くからモンゴルに関りを持ち、日本とモンゴルの友好関係に貢献してきた柳澤さんのお話を私たちが拝聴し、記録として残すことで多くの人に伝えられることがあると思いインタビューをさせていただきました。(田島)

 

質問

1)モンゴルとはどのような関りを持っていますか。

A: 元々私は、国際交流は民間交流こそ一番重要であり、国家外交の近道との考えから、世界には様々な国体があるなかで、交流の難しい国々、特に社会主義国家と仲良くしたいと考え、ソ連との民間交流を目指し、日ソ青年友情委員会とのご縁から、モスクワのレーニン広場のメーデーに参加したりしていました。
 当時は社会主義国との交流が難しかったため、中国を訪れるには、香港から列車で北京に行くしかありませんでした。社会主義国家のモンゴルに行くには、日本とモンゴルの二か国間の交流は困難で、1969年にウランバートルを訪れようとしたときには、ビザがないためイルクーツクで三日間も足止めされたこともありました。
 ソ連との交流同様に政治的な目的は一切もたずに、モンゴルとの交流の推進を目指しました。例えば、子ども達との交流に関してはモンゴル子供基金には毎年のように寄附をし、モンゴル青年同盟やモンゴル日本委員会などの多くのモンゴルの団体との深い交流をはかりました。モンゴルが物資不足に陥った際には航空機をチャーターし、現地に小麦粉や日用品・お菓子・学用品を寄贈、モンゴルの子ども達の支援を行いました。
 日本とモンゴルの国交樹立(1972年)後間もなく、ツェデンバル大統領(当時)の配偶者であるフラトワ氏の指示で、バータルスフ書記官が駐日大使館開設準備で来日のときには、大本氏と協力し現在の駐日モンゴル国大使館である建物を紹介することとなりました。フラトワ氏を日本に招待しようと、日本で訪ねたいところを聞いたところ奈良と広島を希望されましたが、結局来日はなりませんでした。日本には相当関心があったようです。
 サントクエンタープライズでは、1975年頃から1990年代まで、チャーター機などを利用し、多くの日本人をモンゴル観光に送りだしました。多いときには年間16回のツアーにものぼりました。
 日本モンゴル親善協会では、両国間の民間交流のほか、2004年からモンゴルでの植林事業(チンギスハン国際空港~首都ウランバートル間の空港道路街路樹植林を主として)を毎年おおむね2回実施し続けております。2022年には日本モンゴル国交樹立50周年にあたりますが、当協会設立55周年を迎えることともなります。(小野)

 

2)モンゴルに興味を持ったきっかけは何ですか。

A: 私がモンゴルに興味を抱いたきっかけとなったのは、戦後モンゴルに関心のある学者たちが集っていた「日本・モンゴル友の会」に知り合いがいて参加したことです。当時、モンゴルは社会主義であったため、集う学者たちは活躍できませんでした。しかし、私は「道の無いところに細道を作る」という自身の信念のもと日本・モンゴル友の会を1965年に日本・モンゴル親善協会とし、江上波夫会長と共に、日本とモンゴルの友好関係貢献のために現在まで活動してきました。日本・モンゴル親善協会を設立した当時、協会には多くの人が参加しており、司馬遼太郎や井上靖、野間宏など著名な人物と共に活動しておりました。特に、司馬遼太郎とは長年付き合いがあり、先生が東京に来た際には二人で四谷の天丼屋さんに通うのが毎回のルーティンのようなものでした。 (田島

 

3)柳澤さんは、現在日本モンゴル親善協会理事長を務めていらっしゃいますが、モンゴル人との交流にあたり、柳澤さんが大事にしている事はありますか。

A:私はモンゴルと日本の間にはどこか親和性を感じます。まるで日本人のルーツはモンゴルであるかのようです。日本の地方に行くと、そのように感じることがあります。東北地方には帰る際にお酒を3杯御馳走するという風習があり、モンゴルでもゲルを離れるときには、旅が無事に終わるよう願いを込めてお酒を3杯ご馳走するという、駆け付け3杯という似たような風習があります。また、ヤギはモンゴル語でヤンゲルと言うように、言語的な類似点もあり、日本とモンゴル、どちらにも通ずるものは多くあると思います。また、私がモンゴル人と関わってきた中で印象に残っている出来事があります。昭和48年頃、飛行機で隣同士になったアメリカ人女性が、「日本に向かっているが泊るところがない」と言ったので、自分の家に泊めたことがありました。女性は宗教関連で2年ほど滞在していました。その後、女性が帰国する際に自分がモンゴル人であると伝えられました。女性がモンゴル語で自身の名前を書いたときには、仰天してしまいました。アメリカインディアンは、その先祖はモンゴルじんではないのだろうかと思いました。女性の本当の目的は英語を教えることで稼ぐことでした。

 私はモンゴル人の人間性を理解するためには、地方に赴き、地方のモンゴル人とゲルで生活を行うことが大切だと考えています。地方の人々はお客さんを大切にしてくれるし、それは素晴らしいと思います。私は戦争時代の経験から、モンゴルを含むアジアの国々の人々と仲良くすることが世界平和につながると常に思っています。(小野)

 

4)柳澤さんにとってのモンゴルの魅力とは何ですか。

私にとって、モンゴルの最大の魅力はモンゴル人そのものであります。モンゴル人は二キロ先にいても、お客さんが来たことをちゃんと風の便りにて把握して気持ちよく迎えてくれます。これは、どのような時代でも変わりません。実際に、私自身が地方のゲルに前触れもなく尋ねても、嫌な顔一つせず歓迎してくれました。日本から来た見ず知らずの自分に対しても親切に接してくれるモンゴル人は人を大切にする民族であり、モンゴルの地方は自分のふるさとのようだと感じています。(田島)

 

考察、感想

今回のインタビューでは、社会主義時代のモンゴルの当時の状況など、文献などで調べることが難しく、まるで生きた歴史のような出来事をたくさん聞くことができてとても興味深かったです。柳澤さんがモンゴルに訪れた際に地方のモンゴル人の温かさに触れた経験など、人と人とのつながりを大切にする柳澤さんの人となりが現在でもモンゴルだけでなく多くの国とのつながりをもって、日本モンゴル親善協会等での活動を行う力に繋がっているのだと思いました。(小野)
柳澤さんへのインタビュー中に、「地球は一つだから、日本が隣の国と仲良くし、そこからアジアが仲良くなれば、世界平和に繋がる」とおっしゃっていた。現在、世界では戦争や国同士のいざこざが絶えません。そのせいで、飢餓や病気に苦しんでいる人は何人もいます。柳澤さんが目指す世界平和を実現するのには大きな障害がいくつもありますが、日本とモンゴルが交友関係を築けたように、世界も平和になる日がくればいいなと思います。そして、私自身も「道の無いところに細道をつくる柳澤さんのような偉大な人物になれるよう日々自分にできることを見つけ実行できるよう精進したいです。このような貴重なお話を拝聴し記録に残せることを嬉しく思います。(田島)
 
 

おすすめの観光地

今まで200回以上モンゴルに行った柳沢さんのおすすめのスポットはゴビの大草原だ。中でも、花が咲きほこった景色は絶景であり、空気が澄んでいるため人工衛星までもがはきり見えるそうです。(田島)