花田麿公さん
経歴
東京外国語大学モンゴル語科卒業。その後1963年に、特別調査員として外務省入省、翌年には任官。1965年にモンゴル初訪問し、その後日本とモンゴルが国交を樹立する際に携わる。1998~1999年に駐瀋陽日本総領事を務め、1999~2002年に、駐モンゴル国日本大使を務める。NPO法人北東アジア輸送回廊ネットワーク元会長。
取材の目的
日本とモンゴルの国交樹立に深く関わったという歴史的偉業を持つ方がモンゴルでどのような体験をしたのかということに興味を持ち、取材させていただきました。モンゴルに長年携わった花田元大使ならではの経験や、モンゴルに関する価値観を伺いました。
取材内容
1. どうして東京外国語大学モンゴル語学科に入学されたのですか。
高校に入って、漢文の時間に学習した唐詩の世界、特に辺彊、塞外(中国の外)の地に魅せられました。2年生のとき東洋史の授業で学習したシルクロード、オアシスについて、個人的にその地図を詳細に作成しました。このこともあり、中国とその北の遊牧民世界、その間をつらぬくシルクロードに深い関心が生まれました。そしてモンゴルの中国支配の時代、中国では元といいますが、モンゴルではイフ・モンゴルです。チンギス・ハ-ン帝国について、はまってしまったので、もともと数学が得意ということもあり理科系志望でしたが、親友にその存在を教えてもらった東京外国語大学のモンゴル科に願書を出してしまいました。
他方で、中学から高校にかけアメリカ文学にこり、ノーベル賞作家フォークナーなど来日したときにはその著書にサインをもらいに行ったりしました。その関係で『トムソーヤーの冒険』で有名なマーク・トゥウェインに興味をいだき、彼の『赤毛布外遊記』(毛布=ケット→ブランケット)という作品を読みました。お上りさんとしてヨ-ロッパに団体旅行した話で、アルハンブラ宮殿の訪問記があり、これに魅せられてアラビアに興味が行き、やがてイラクのバグダットからペルシャに興味が進み、イランにたどりつきます。英国のペンギン文庫に『Iran』という文庫としては分厚い本があり、これを90ページぐらい翻訳したりしましたが、すぐに興味は跳んで学校で学習したイランのイルハン国時代に行きつきました。そこからチンギス・ハ-ン帝国にたどりつくのはすぐでした。このように「知」の世界旅行が東回り、西回りしてモンゴルで合流したわけです。
2. 日本とモンゴルの国交樹立にあたって苦労したことや障壁が立ちはだかったことがあれば教えて頂きたいです。
苦労したことはいろいろあります。一番苦労したのは、モンゴル語という外交関係の無い国の言葉を学習してしまいましたので、外務省に入ってからは、幹部や関係部署になんとかモンゴルに関心をもっていただきたい、そして、外交関係を樹立しようという空気ができるように、あらゆる努力を集中したことです。つまり、内側の壁です。モンゴルと外交関係をして日本にどんな利益があるのかと露骨にいう人も少なからずいました。
二つ目はモンゴルと日本ともに有した外の壁です。モンゴルにはロシア、日本にはアメリカと中華民国、つまり台湾政府が邪魔をしたり、抵抗したりしました。
三つ目は、日本とモンゴルとの間で闘ったノモンハン事件(モンゴル側はハルハ川戦争と呼称)です。モンゴル側が要求する戦争賠償問題と、日本はモンゴル国を承認していなかったので、戦争状態があるはずがないとする国際法上の理論問題が一つ。(国際法上では戦争は国家同士で起こるものであるため。)他方、国際法上の理論問題とは別に、現実世界では戦闘があり、被害がでているという現実の問題がありました。双方にとってある程度満足のいく解をどこに求めるかという難問がありました。
3. モンゴルで死ぬかと思った出来事を教えてください。
(1) 1965年、国連経済社会理事会のECAFE(Economic Commission for Asia and the Far East)セミナーが初めてモンゴルで開催され、これに出席するため出張しました。モンゴル側は日本と戦争状態にあるといっていました。上司より、「君は日本政府の役人だから、空港から捕虜として牢屋に直行もあり得る。モンゴルの監獄には水が張ってあり、横になれないという情報もある」と脅され、死ぬ覚悟で出発しました。
(2) 私はモンゴルの地方出張のときは航空機を使わず車で行くことにしていました。せっかくの機会ですので自分の目で地域を具に観察し、その年の草の状況、家畜の成育状況などを知りたいと思いました。それは常に死と隣り合わせです。
あるとき、テントで野宿をしているとき、夜に強風となり、テントの音がすごく、運転手さんがバイシン(建物)に入ろうと勧めました。草原を見渡してもバイシンなどありませんし、あるはずもないこと承知のはず。運転手さんは強風の経験があるので怖かったのかも知れません。私はモンゴルの自然の怖さを彼ほど知らなかったので無事寝ましたが、運転手さんは一睡もしなかったそうです。風と言えば、9名ぐらい乗ったランドクルーザー車が竜巻の中で、パカンと音を立て浮き上がったこともありました。その中で馬がしずかに草を食んでいましたので慰められました。
(3) アルハンガイ県からフブスグル県にいく3000メートルの峠をアルハンガイでの日程を終え夕刻から越えたとき、麓では雨でしたが、高度があがるにつれみぞれになり、タイヤの溝に泥がめり込み、それが凍りつき、つるつるのタイヤになりました。高度はさらにあがり、気温は下がり、次第に雪になりました。右側の下は深い谷、車がはじく大きな石が谷底に消え、水に入る音がしていましたがやがて音がしなくなりました。断崖のふちを走っているので恐怖もなみたいていではありません。一級ライセンスの運転手さんもアクセル、ブレーキをたくみにあやつり、頂上にたどりついたときは夜半過ぎでした。遅い夜食を次の部落でとる予定でしたが無理でした。下りも用心に用心の下山で、現地には朝方到着しました。一番危ないところは10キロを10時間かかったそうです。運転手さんの表現では、そこを10センチずつ走ったそうです。前夜12時まで峠に迎えに出ていたと先方の方々はご苦労を述べられていました。
(4) 雪害の南部視察をモンゴル総理のお誘いでしました。私はただ一人の外国人として随行しましたが、ヘリコプターがドンドゴビ県の空港目前で不時着し、そこからジープで南ゴビに向かいました。総理の車と私の車二台です。やがて吹雪になり、離ればなれになりました。
突然車のヘッドライトと車内灯が消え、車は止まり真っ暗になりました。車のファンベルトが切れ、タンクも若干ですが亀裂が入り、ガソリンが少しずつ漏れ始めていました。南ゴビの広い荒野にぽつんと取り残され、持参したイリジウムという無線通信機でウランバートルの大使館と連絡とろうとしても粉吹雪に短波が阻まれ、思うように通信ができず諦めました。後からわかったのですが、実は妻がほんのかすかな通信の途切れをキャッチして、想像を働かせて救援車の派遣を手配していました。でもそのときは万事窮す。静まりかえった漆黒の車内で、車外の吹雪の音を聞くのみです。しかし、被災民への贈呈品の中に、携帯用の懐中電灯があることに気づき、それを使い、運転手さんがジャンバーの皮をさいて、促成のベルトをつくり、懐中電灯の下で修理して、なんとか草原の中の一軒のゲルにたどりつきました。そこに総理が先に到着していて入れ違いに出発していきました。その日は途中の幼稚園までたどりついてそこで宿泊することになりました。後で首相は「怖かったねえぇ。道中ゲルはたった一軒しかなかったねぇ。」といいました。この間220㎞でした。万一のときモンゴル人のゲルに潜り込めるのは大使では花田しかいないので、花田を誘ったといいました。でもあの広い荒野でたった一軒しかゲルは無かったのです。精神のしっかりした牧民の方でした。大学に行っているお嬢さんも帰省中で賑やかななかにお茶を一杯いただき、また荒野に出ました。
4. コロナ禍以降とそれ以前でモンゴル国内の社会はどのように変容すると思いますか。
たまたま4月24日ネットでみたのですが、大要をのべると、「24時間で1263人が感染し、計29219人になった。新患のうち1144人はウランバートル市内で感染したもので、116人は地方である。残りの3名は院内感染である。(中略)4311人が入院中で、2517人は軽度、1376人はやや重度、345人は重度、74人は最重度である。7846人が在宅で経過観察中、検査中の者が2226人いる。5名が死亡した。」というものです。
因みに4月24日の日本の感染者数は5142人、人口の割合ではモンゴルでは日本の約10倍もの感染者です。経済もかなり打撃を受けているようで、立ち直りには先進国の支援が必要でしょう。社会が変化するかといえば、現地でつぶさに観察していないので不明です。モンゴルは、かなりアイソレートな環境で成り立つ牧畜を基本産業としていますので、そのかぎりでは、打撃はさほどでないように思われます。これまでにひどい伝染病の洗礼を何度も受けてきた民族です。モンゴル社会が比較的しっかりしているのは、学校の教師がしっかりしていて、教育に対する国民の真摯な感情がその支えになっていると思われるからです。たとえば、子供が化学の授業で遅れをとっていたら、その教科だけの家庭教師を5時間ぐらい頼んでしのぐというような習慣があります。この点は恒常的に家庭教師を雇うより少ない投資で効果絶大です。このようなしっかりした基板が社会にあるので、容易なことではモンゴルはぐらつきません。ただ経済は大変だと思います。
取材の感想・考察
お忙しい中で、どの質問もとても丁寧に回答してくださった花田元大使の真摯な人柄に強く感銘を受けました。私が特に印象に残っていることは「モンゴルで死ぬかと思った出来事があれば教えてください。」という質問に対して、四つもご自身の身に降りかかった出来事を仰っていた点です。どの出来事も壮絶なものばかりで、いかに花田元大使がいかにタフな人であるのかがわかり、聞いた甲斐があったと思いました。また、日本とモンゴルが国交を結んでいない時代の経験を伺えたことはとても貴重であることと同時に、今の日本モンゴル間の友好関係は花田元大使の努力の下で成り立っていることを心に刻むべきだと考えさせられました。
モンゴル国内のおすすめの観光地
(1) 地方を旅し続けて、そのすばらしさに思わず声を上げるようなところは各地にあります。他方でそのような私的に聖地である地を踏み荒らして欲しくないという感情があることも事実です。
しかし、ここで思い切ってあげるなら、オブス県のオラーンゴム市からバヤン・ウルギー県へ入る道にウウレッグ・ノールという湖があります。モンゴル牧地の先に湖があり、対岸に雄大な夏でも白銀の4000メートル級のスイスアルプスのような山脈がそびえています。ゆっくり一日ピクニックして見たかったですが、出張なので急ぎ通り過ぎました。
また、そこに至るハルヒラー山塊に夏でも白銀のツァガーンデグリーがあり、さらに、バヤン・ウルギー県からホブド県に通じる道から眺められ、山頂の独特の形状の雪がかかるツァンバガラブ、両山ともその名の心地よい響きとともに心の聖地になっています。
(2) 他方東の端、ハルハ川付近には日本と闘った戦跡が多く見られますが、ボイル湖畔のテントで野営したとき、対岸に中国側の民家の灯が転々と見え、なんとも郷愁をさそう風景でした。そこに至るまでに300キロもの無人のメネンギンタルという荒野を越えねばなりませんが、アルマジロ、白い狼、地平線いっぱいのガゼルの群れなど珍しい動物を見ました。
(3) カラコルム史跡やウブルハンガイ県では、ちょうど秋のはじめ、ヒマラヤに渡るアネハヅルの大集合を見ました。モンゴルで子育てを終えた鶴の親子が越冬のためヒマラヤを目指すために集合して、空いっぱいに円を描き群れて飛んでいました。その鳴き声と動きにつるたちの覚悟を見た思いでした。
(4) ゴル中央部の川がセレンゲ川一本に集まり、やがてロシア領のバイカル湖に注ぎます。そこではゆったりとした流れになり、大型船がゆっくり進み、なんとも穏やかな風情です。流れ込む川の一つエグ川は川下りの冒険ができる川です。エグ川の水源はフブスグル湖です。バイカル湖は世界一透明度をほこりますが、その水源のフブスグル湖はバイカル湖の姉にあたるのでさすがに水が驚くほど透明です。フブスグル湖のモンゴル一の大型船スフバータル号は夕刻出て夜が明けても湖の中間ぐらいだそうです。近隣遊覧コースがあるときもあるようです。
(5) しかし、モンゴルでの究極の楽しみはモンゴルの人々との交歓です。オブス県で一夕大勢の人々と盛り上がり、私の下手くそなエレクトーン演奏で大勢の人々が舞踏したときは最高潮となり、忘れられない思い出です。
編集者;小野詩織