鯉渕信一さん
1945年に茨城県で生まれ亜細亜大学経済学部経済学科卒業後、在モンゴル国大使館派遣員、モンゴル国立大学交換教授、亜細亜大学アジア研究所教授、亜細亜大学学長などを経て現在は亜細亜大学名誉教授。その他司馬遼太郎記念財団監事、日本モンゴル協会理事も務める。2002年にはモンゴルにおける最高の国家勲章であり、外国人に授与される勲章の中では最高位であるモンゴル国北極星勲章を授与される。『星の草原に帰らん』の訳者
聞き手:経済学部3年 室田夏陽
鯉渕さんとツェベクマさんの関係
1973年6月7日鯉渕さんがウランバートルホテルを訪れた際、フロントで迎えてくれたのがツェベクマさんでした。鯉渕さんは「星の草原に帰らん」の作中で当時の事を次の様に綴っています。
“私は少し緊張していた。だがツェベクマさんの笑顔で、いっぺんにそんな緊張がとけてしまった。ツェベクマさんの印象は、そのときからずっと今にいたるまで、ちっとも変わらない。ツェベクマさんにお会いすると、明るい笑顔で人を温かく包み込むような雰囲気に、私はいつも、ほっとした気分になる”
きっかけ
私は司馬遼太郎著作の「草原の記」を読み、ツェベクマさんを知りました。作中で彼女はとても大らかな人で皆のお母さんの様な人、それでいてどんな苦境にも負けず、強い女性でした。ツェベクマさんは大正13年にシベリア領に生まれ、その3年後に生まれ故郷を離れてからは長い間内モンゴルで過ごしましたが、当時の内モンゴルは過ごしやすい環境とは言えず、中国共産党の政策を始めとする多くの悲劇に見合われます。それでもツェベクマさんは希望を捨てず力強く自らの人生において足を踏みしめていました。
今回はそんなツェベクマさん自身が記した「星の草原に帰らん」の構成・翻訳を担当し、ツェベクマさんとも交流深かった鯉渕信一さんにツェベクマさんはどの様な人であったのか、悲劇の要因などについてインタビューをさせていただきました。
Q1)鯉渕様にとってツェベクマさんとはどの様な人でしたか
A. 大らかな性格の中にも毅然とした、物に動じない強さを持ち、それでいて他人への気配りができる方でしたね。判断は的確で、司馬さんが「外務大臣も務まる人」と表現していますが、まさにそんな賢明な方でした。
1973年の最初の出会いから亡くなるまで何かとお世話になり、私にとってモンゴルでの「お母さん」という感じでした。私がモンゴルに滞在しているときは自分の家の牛乳(自分で飼っている牛の乳を搾った)を運んでくれたり、新鮮な肉や野菜を度々届けてくれたり、食事に招いてくれたりしました。私の学生を自宅に泊めて世話してくれたりしました。またツェベクマさんは日本にやって来ると、わが家に泊っていました。そんな家族ぐるみのお付き合いでした。
Q2)ツェベクマさんの悲劇の要因はモンゴルとその周辺の国家関係が大きいと私は考えていたのですが鯉渕様はどうお考えでしょうか
A. その通りですね。ロシアと中国という大国に挟まれた民族の苦悩は、当然、民族一人一人の運命にも関わってくるわけです。しかしツェべクマさんはその困難な条件下にあっても、運命に負けず、自分を見失わず、しっかりとした人生を歩み、素晴らしい人間関係と家庭を築きあげたわけです。そのツェベクマさんの人間形成の戦前の満州での日本人教師。高塚先生の影響がいかに大きかったかは、上の本で分かりますね。このツェベクマさんの素晴らしさに司馬さんが心を打たれて、彼女を主題に『草原の記』を執筆したわけです。
-ツェベクマさんは1937年の6月の始めに日本人女性の高塚繁先生と出会い、高塚先生が教鞭を執るモンゴル女性塾で皆と衣食住を共にして日本語、算数、音楽などの勉強からお行儀や作法、裁縫など、多種にわたり学んでいました。高塚先生は「勉強しているのは日本のためでも、日本人になるためでもないのですよ。モンゴルのために、あなたたちは日本語を勉強しているのです。」というのがいつも口癖でありました。この言葉はツェベクマさんの心に強く残り
“ここでの高塚先生との出会いが、その後の私の生き方を方向づけ、また心の支えにもなった。もしここで先生に出会う事がなかったら、確実に私の人生は違ったものになっていただろう。”
と綴っています。ツェベクマさんにとって高塚先生はとても大きな存在でした。-
Q3)モンゴルは観光業に対して消極的ですが、外交についても同じことがいえるでしょうか。そう思う理由も一緒にお願いします。
A. 決して消極的とはいえないと思います。ただ諸条件が十分でないということです。
社会主義時代から観光事業にはそれなりの力を入れていました。「ジョールチン」という観光公社があって、それなりの力を持ち、努力もしていました。しかし何と言っても、基本的に自然環境面から観光シーズンが半年にも至らない短期間であること、国土の広大さから交通インフラが十分に整わないことなどから思うように発展しませんでした。
現在は観光会社が沢山できて、それぞれに頑張っていますが(社会主義体制下ではサービス精神の欠如というのもありましたが、現在、これは改善されていますね)、上の基本的な面が容易にはクリアできず苦しんでいるということです。夏季以外の観光をどう創りだすか、特に長い厳寒の冬の観光をどうするかが大きなテーマですね。現在の観光シーズンはきわめて短く、そのために設備の充実、継続的な人材確保などが困難なわけです。夏の短いシーズン以外は仕事が激減するわけで、会社としては従業員を雇ってはいられないわけですし、十分な設備を整える余裕も生まれないということですね。
外交は活発ですし、見事に展開しています。大国に挟まれたモンゴルの発展には外交関係がきわめて重要です。外交を間違えれば大変なことになってしまいます。自国を取り巻く中国ともロシアともバランスよく交流していますし、日本や欧米ともじつにうまく付き合っています。日本人の目からみると、きわめて外交上手な国という感じです。
大国に挟まれた人口の少ないモンゴルがなぜ、太国に挟まれつつ、しかも周辺の民族のことごとく飲み込んできた中国やロシア(ソ連崩壊後に各共和国が独立しましたが)に挟まれつつも、なぜモンゴルだけが独立を維持できたのか、このことはモンゴルの外交と無関係ではないでしょう。
Q4)モンゴル国内のおすすめの観光地はどこでしょうか。そう思う理由も一緒にお願いします。
A. どのようなモンゴル観光を希望するのか、何日くらいの観光を考えるのかによって場所も違ってくるでしょうね。日本人の一般的な観光である1週間以内程度(乗馬をして、多少遊牧社会に触れて、広大な草原を見て)なら至るところにありますね。一つ一つ挙げてはきりがないくらい(笑)。
私のおすすめの旅は、一般的な観光のようにアチコチ飛び回らないで、例えば広大なゴビの1カ所に留まって、2日でも3日でもノンビリと寝転がっていることです。
単調で何も変化のないかにみえるゴビも時間の経過、太陽の傾きによって刻々と風景が変わっていきます。朝夕には遠くにゲルの煙がたなびき、ときおり馬やラクダに乗った遊牧民が通り過ぎる、遠くから貴方をみつけて遊牧民が近づいて来る、虫が飛ぶ羽音さえ聞こえてくる・・・こんなモンゴルの面白さを味わうには、現在の日本的観光では難しいでしょうね。
日本人は真面目にアレも見よう、コレもしなくてはと、自分が動き回ってしまう。あの広大なゴビでは動き回ってもその距離も、見えるものもたかがしれている。むしろ見ているつもりが、大事なものを見失ってしまう。
広大な草原の醍醐味は、そこに身を寄せてノンビリすることです。そうすると、地球が自転していることを実感できるかも、地球の自転する音まで聞くことができるかも・・そんな気分になることです。
最後に
鯉渕様の一つ一つ丁寧にご回答してくださる姿勢にモンゴル、そしてツェベクマさんへの想いを感じました。どんな困難な状況下でも地に足をつけ、自分を忘れず、それでいて周りへの気配りを忘れないツェベクマさんの一面をまた伺う事ができ、再度感銘を受けました。また、モンゴルの観光業を調べた際に消極的だという印象を受けていたのですが、その背景に様々な問題が山積みになっており、決して消極的ではない事を知りました。同時に大国に囲まれながらも独立を維持した事、モンゴルの外交にとても興味を持ちました。鯉渕様とお話して自分はまだまだ未熟な事を再度認識したのでもっとモンゴルについて勉強しようと思います。