日本人のモンゴル抑留という歴史について

1ヶ月前

文学部4年 西尾久瑠実 (2021年卒業生)

日本人のモンゴル抑留という歴史について

1.      はじめに

「シベリア抑留」という言葉を聞いたことがある人は多いだろう。終戦直後に、当時の満州軍などの外地に残っていた日本兵がソ連によって武装解除され、捕虜としてソ連各地に移送された出来事である。しかし、一方で「シベリア抑留」の一部として約12000人の日本兵がモンゴルに抑留し、捕虜として約2年間、労働を課せられ、そのうちの約1600人が死亡したことで帰国を果たせなかった「モンゴル抑留」という歴史が存在していることはあまり知られていない。加えて、日本人のモンゴル抑留について、近年モンゴルでは盛んに研究されているが、日本ではそれほど研究されていない。この研究においても、様々な視点から行われてきたが、解明されていない点が未だ多くある。そこで今回、私はこの日本人のモンゴル抑留という歴史の実情について、いくつかの本から情報を得ることによって、この論文にまとめることにする。

2.      モンゴル抑留の背景

この歴史は1932年3月に日本が満州国を作り、ソ連と領土を接する地域を支配したことから始まる。満州国の誕生はソ連によるモンゴルの完全保護化をまねき、その過程でモンゴル内では、当時のエリート2万人が「日本のスパイ」「反革命組織のメンバー」の疑いをかけられ、大静粛がされた。そして、1939年5〜9月のハルハ側戦争では、ソ連・モンゴル軍と日本・満州国が対峙した。このとき、ソ連と共に戦闘に従事したモンゴル軍の規模ははるかに小さいが人口から考えると大きな数字だった。

このような出来事が起こったのちの、第二次世界大戦の末期、1945年8月8日にソ連は突如、日本に宣戦布告し、翌9日にはソ連軍機甲部隊が国境から南下をはじめ、満州や朝鮮半島北部を制圧した。このソ連が南下を始めた翌日の10日に、モンゴルは日本に宣戦布告していた。この宣戦布告の背景には、1934年11月にモンゴルがソ連と「相互援助条約」を口頭により締結していたことがある。(文書となったのは2年後の1936年3月。)この条約は「ソ連、モンゴル両国は、どちらか一方が他国から攻撃を受けた場合、いずれの側もすみやかに、軍事を含むあらゆる援助を行う。」というものだ。そのため、モンゴルはソ連の対ドイツ戦のときには大量の家畜を送り、ソ連の対日戦にも参戦したのである。そして、日本の満州軍をまたたく間に破ったソ連は約60万人の日本軍の捕虜を獲得し、度重なる戦争で多く失った労働力を補填したのである。この捕虜のうちの約12000人が戦利品としてモンゴルに送られた。モンゴルもまた、ソ連による大静粛や戦争で人口が減少していた。こうして、ソ連で捕虜にされた日本人は「シベリア抑留」となり、モンゴルに輸送された捕虜は「モンゴル抑留」となったわけである。

3.      モンゴル抑留中の生活

(1)   過酷な自然環境

捕虜にされた日本人たちを苦しめたのはまず、モンゴルの厳しい自然環境だ。モンゴルの冬の気温はマイナス30度を下回るほどの酷寒だ。冬でもそこまでの寒さを経験することのない私たち日本人がこの寒さを想像するのは難しいだろう。これは、素手で外に出ると50メートルも歩かないうちに、手の指や鼻先がろうそくのように白くなってたちまち凍傷になってしまうほどであり、凍傷になった部分は早急に治療されなければ、全身を蝕んでいくため、切断などの処置がとられることとなる。両足が凍傷になったために、麻酔なしで両足の切断を行った者もいた。モンゴルで夏と言えるのは7月と8月だけだと言われるほどモンゴルでは一年のほとんどを寒さと戦わなくてはならず、日本の防寒具では通用しないこの寒さの中で、日本人捕虜は肉体労働を強いられた。

また、モンゴル抑留中、水はとても貴重なものだった。外はマイナス30度に関わらず、飯盒に一杯お湯をもらってそれで震えながら体を洗わなければならない。シャワーを出してくれたとしても一台のシャワーにつき20人、外側にはお湯が届かない上に1分ほどで終了する。山の兵舎や伐採地では氷や水を溶かして炊事に使うためやはり貴重である。モンゴルで捕虜になったことで日本の水に恵まれていることの素晴らしさに気づいた者もいた。

(2) 劣悪な生活環境

捕虜になった日本人たちはいくつかの隊に分けられ、その振り分けられた隊によって収容される場所や、労働内容が異なった。しかし、ほとんどの収容所が人が生活をしていく場所とは言い難いものであった。例として、ウランバートル第一収容所を挙げる。この収容所は都心のラマ教寺院を改装したものであり、1階から4階まで床を張った(中央だけ5階)ものに過ぎなかった。その上、各階の高さは人が座れる程度、一人当たりのスペースは肩幅ほどであり、横向きでなければ寝られない窮屈さなのであった。他の収容所も、地面に大きく掘った穴に屋根を被せただけの穴蔵兵舎に二千人ずつに分けて収容されたり、工場の敷地にバラックを付設するなどの簡単なつくりであった。冷蔵庫のような宿舎であるにも関わらず、防寒対策はないに等しかった。そのため、就寝の際は、防寒具や防寒靴をはいて完全防寒装具を着用して眠りにつく。また、便所に関して言うと、そもそもモンゴル人は大地の中で用を足すため、便所という施設を知らず、日本人捕虜たちは便所代わりに、大穴を掘り、そこに何列かの板をかけて、板と板の間の隙間の上にしゃがんで、間に落とすという形式のもので用を足した。一杯になれば別の穴を掘り、使用済みのものには土をかけて痕跡を消した。

この寒さに加えて、過酷な労働と食糧不足により、皆、下痢や栄養失調で苦しむが、薬品を何一つ持っていない衛生兵がいるのみであった。毎日死人が出るが、墓掘りは間に合わない。何日も雪に埋もれて放置してあるが、冷凍になっていくので臭くもならない。ほぼ毎日労働しているといえども、入浴はもちろん、顔なども何ヶ月も洗わせてもらえず、皆、全身が炭をつけたように真っ黒になる。さらに捕虜たちを苦しめたのがシラミの存在だ。服も毎日着たままであるため、シラミが大量にわく。このシラミというのが、2日で一匹が数百匹に繁殖するほどやっかいなものであり、潰しても潰しても間に合わない。シラミは小さい上に、対して痒くもないからと1日でもおろそかにすると、全身を吸血され、ふらふらになる。シラミの媒介によって発疹チブスが広がって多くの者が死んだ部隊もあるほどだ。都会の収容所では大きな熱気消毒機あるが、田舎にある収容所にはその設備がないため、大きなドラム缶に水を入れて、煮沸消毒をするしかなかった。

(3)過酷な労働

モンゴル政府は、戦利品として獲得した日本人捕虜たちを使って、ソ連のような近代的な都市づくりを計画した。その目的のために、捕虜たちは日々厳しいノルマに追われながら強制労働に従事したのである。このノルマというのは本来、単位時間当たりの基準作業量なのに、1日の基準作業とされ、達成まで働かされた。しかし、建前では8時間労働とされていた。先ほど例に挙げた第一収容所では、毎日12時間労働で、午前午後の休憩は10分ずつしかなかった。最低でも週1日は休日とされていたのに、ノルマの期限が迫ってくると一ヶ月に一度か二度くらいしか休みがもらえず、24日連続で作業をすることもあった。休憩も各10分から各5分に短縮されたりもした。

労働の内容は収容所によって様々であった。山頂近くにある収容所では水がなく、炊事その他、一切の水は氷を溶かして使っていたため、丘を越え1.5km先の川まで行き、氷を割り、毛布に包んで背負ってこなければならない氷運びという作業があった。また、ウランバートルの収容所で作業に従事した捕虜たちは、蒙古大学の校舎や劇場などの建築に取り組んだ。木材の伐採や石切りから始まり、極寒の中、凍結した土地に土台を掘り、夏には強い日差しの中、日射病と戦い、捕虜たちは自分の体に鞭打ちながら完成までさせたのである。建物建築に関して素人の日本人捕虜たちが自分たちの身を削りながら完成させたこれらの建物は、現在でもモンゴル、ウランバートルの都市の中心に佇んでいる。

毎日朝5時に起床し、わずかな食料しか与えられない中の過酷な労働はいつまで続くのだろうと捕虜たちは日々絶望していたことだろう。栄養失調になる者が絶えない中、捕虜たちが行きたいと願って病まなかった場所が病院であった。病院に入れば、日々の労働はなく、白い粥が支給されると言われていた。しかし、そう簡単に病院に行かせてもらえるわけでない。どんなに体調が悪くても外に見えない病気は病気でないとされるため、神経痛や内臓の病気などは仮病とされた。また、収容所によっては仮病とされた場合、嘘をついたとして、幹部から殴られ、ただでさえ少ない食事をさらに減らされた。そのため、病院に送られる前に、だいたいは収容所内で亡くなってしまう。病院に行きたいあまりに、機械に片手を突っ込んで、片腕を切断して病院へ行く者もいた。日本人捕虜たちに課された労働は、肉体的にも精神的にも果てしなく人々を追い込んでいったのである。

(4)食糧不足

日本人捕虜に課された労働を過酷と感じさせた原因の一つには。間違いなく捕虜たちの過度な栄養不足が挙げられるだろう。モンゴル政府があげていた捕虜に対する1日の食物の配給基準量は、白米または粟、小麦300g、雑穀(大豆、高粱、小豆)100g、黒パン(麦の皮でつくったもの)400gまたは黒パン粉240g、野菜(キャベツ、にんじん、大根、じゃがいも)600g、肉または内臓物、頭(馬、ラクダ、ヤギ、ヒツジ、カモシカなど)60g(都会は5g),塩15g、砂糖16g、茶5g,タバコ(木の屑のようなもの)5gとされ、生きていくのに必要な程度のカロリーが補給できるようになっていた。また、作業のノルマを完遂した者は黒パン200gと砂糖15g、肉またはカルパス5gの特別配給とされていた。しかし、これだけの量をもらえることはほぼなかった。

まず、食事のシステムは、各部隊から2名ずつ出て、一名は飯盒や食器を並べて待ち、各小隊に汁と団子を別にして分配されるというものである。わずかな食事でも、皆、それだけのために必死に毎日生きているのだ。どれだけ均等に分配したとしても自分のものが少ないような気がし、文句が出る。空腹のあまりに皆、理性を失い、配分のたびにいざこざが起こる。ある収容所の夕食は、飯盒の蓋に8分目くらいの高粱飯の量に、茶碗にしたら2配分の雑炊。夕食の後は翌日の昼食としてのパンを配給されるが、1日のうち一回でも満腹を味わいたいと大抵夜のうちに食べてしまう。このパンというのも大きい黒パンを配分するのだが、1g でも人が多くならないよう尺や天秤を使って正確に分配する。パンはそれぞれの手に渡るまで2時間以上も費やしたというほどだ。また、海を持たないモンゴルでは、塩は砂糖より何より高価であった。

労働生活の中での食事量の多い少ないは、人々の精神状態に影響を与えた。普通よりも余計に食べれた時は少しくらい余計な労働をさせられても苦に感じないほどである。どの収容所もノルマの達成具合によって食事量は左右したが、基本的な日々の食事量は収容所ごとに異なった。この裏側には、収容所を仕切る日本人幹部たちの存在があったのである。

⑤抑留中にも残った日本軍の秩序

戦争は終わり、日本軍は解散、皆、同じ捕虜になったはずなのに各収容所内では旧軍隊の序列が残っていた。日本人捕虜たちの生活を決定付けたのは、モンゴル人ではなく、日本人だった。モンゴル側は収容所作業及び作業能率向上のためか、日本軍隊の組織階級制度をそのまま利用し、ノルマ達成さえできるのであれば、日本人幹部がどのような行動をとったとしても何も言わなかった。日本の将校や下士官の方がモンゴル側よりはるかに威圧的であり、欠礼は依然として最大の犯罪、停止敬礼までも励行され、日々の食事も班長、古兵と差別があった。初年兵は宿舎で寝るところもない上に、昼は使役にこきつかわれ、夜は一時間交代の不寝番をさせられる。休日も初年兵は班長の洗濯などをしなければならない。初年兵は下痢になったとしても平常通り上からの指示に従わなければならない。体調が悪いからと作業を怠れば、殴られたり、食事の量が減らされたりした。収容所を取り仕切る日本人の将校の多くはモンゴル側に極めて迎合的であり、そのように振舞っていくことで自分たちの地位を守ってきた。このような将校は、皆が飢えていることを利用して人々を従え、同胞であるはずの日本人抑留者を多く死に追いやった。食事を管理できる炊事担当者は真面目なものが選抜されているが、交替を恐れて、将校たちに兵隊の数倍の食料を貢ぎ、そうすることで彼らは食糧をたらふく食べている。そんな将校はたいてい冬の間一度も作業に出なかったという。

①    モンゴル抑留最大の惨劇~「暁に祈る」事件~

将校は、同胞である日本人に均等に食事を与え、強制労働が課せられた中でも守るべきである。しかし、日本人将校の一部は、兵卒による作業ノルマの達成、超過達成を最優先とした。その代表人物が元憲兵曹長であり、抑留中、プロムコンビナート(通称:羊毛工場)の作業大隊長に任命された吉村(本名:池田重善)という人物である。吉村は「自分を隊長にしてくれれば、ノルマを必ず達成してみせる。」とモンゴル人幹部に言い、ノルマを達成できるのならばと、モンゴル側は吉村に収容所の管理を任せた。吉村は「怠け者は減食・絶食の刑に処する」と日々の石切作業で兵卒にノルマ達成を強要した。それだけに留まらず、吉村はモンゴル側のノルマ以外にもノルマを作り出したのだ。吉村隊の規定外労働には、川からの木材引き上げというものがあり、ズボンを脱ぎ裸足で水の中に入って作業をするものだ。下流にたって油断すると、太い材木がぶつかり、腹の皮をはぎとられて即死する。また他にも、捕虜の睡眠時間のうち、朝の二時間と夜の二時間を、モンゴル側の収容所長と組んで町の支那の業者に提供し、靴づくりの仕事をさせた。一人一日の労働を1トゥグルクで売って、朝夕一個ずつのノルマを課す。これによって得られた収入は全部吉村の懐に入った。彼は仲間の命を犠牲にすることで、モンゴル抑留における自分の安全を保障したのだ。日々、将校よりもはるかに少ない食事で、過酷な労働を課せられ、抑留者たちはただ生き延びていくことに精いっぱいだった。食事が足りないと、体力もつかず作業もままならない。負の連鎖である。その中でノルマを達成できない人間や、吉村に反感を持った人間に与えた罰が「暁に祈る」と言われるようになったものである。この罰の内容は、屋外の木に縛り付け、冬でも明け方まで零下何十度の戸外の柱に、裸でつながれ、放置されるというものだ。元々「暁に祈る」とは映画の名前であり、それほどヒットしなかったが主題歌だけが流行し、軍歌のなかに組み込まれたことから、兵隊は皆この歌を知っていた。この罰を受けた者は初めのうちは足踏みしたり、体中を掌でさすったりするが、明け方には気力が尽き、どんな兵士でも倒れる前に大声で母の名を呼んで泣き出ことから、この罰を「暁に祈る」と名付けられたのである。この罰を受けた兵士は全身凍傷で苦しみ、死に至った。吉村のことは、他の収容所にも伝わっていき、「あれこそ本当の人間地獄だ」と悪評が流れるようになった。

この事件は、他の地域の民主運動に知られ新聞にも報道され、吉村は帰国後、告訴され有罪判決を受けた。彼の言い分としては「いつまで続くか分からない捕虜生活の中で、日本人が多く生き残るためにはモンゴル側の要求にこたえる必要があり、そのために若干の犠牲が出ることはやむを得ない。」というものだった。

②    仲間思いの隊長

しかし、日本人隊長の中には、吉村のように自分の利益だけを考えるような人物ではなく、同じ抑留者として隊員への配慮を忘れない人物もいた。風を引いたら、情けで休ませてくれ、モンゴル側が食糧を増配したら、しっかりと隊員に与えられる食事の量も増やしてくれる。他の収容所で、わずかな薄い粥のみが与えられているにも関わらず、このような隊長がいる収容所ではたまに、まんじゅうが支給されることもあった。冬になると、配送のためのトラックが不足していたり、市場でもパンが出回らなくなったりして、食糧が極端に減ることも多々あった。このようなときは小豆のみの日々が続いたりしたが、その原因は収容所の隊員も察していた。

風邪による黄疸が流行したときは、ビタミンC不足を解消するためにじゃがいも少しずつ給与されることになったり、作業現場ではキャベツの青い部分をスープにいれてくれたりした。昼にわずかなパンしか与えられない収容所とは大きな違いである。いくら他より多くの食事が与えられているとしても食糧不足に違いはないのだが、隊員思いの隊長がいる収容所の隊員は、まだ、人間性を保っていたといえる。曹長の誕生日であれば、祝辞と、その環境では精一杯の黒パンとバターをご馳走し、もし誰か隊員が誕生日であれば、一日中他の隊員から祝辞を受け、昼食も平常より多く、キャベツやにんじんを炊いて祝ってくれる、ということもあったそうだ。苦境の中でも、分隊の融和を図る余裕を多少たりとも持つことが出来た。収容所の環境は人々の人間性や、日々生き延びていくための心の持ち様にも影響したと言える。

そうとはいえ、小豆や大豆ばかりで皆、空腹な思いをしているときは、モンゴル人との間で物々交換が始まり出し、最初は石鹸、タオル、靴下などの小さいものだったが、終わりには毛布、日本の防寒外套なども交換し始める。また、宿舎の中では、日本人同士の被服類の盗難が頻繁に起こるようになった。他の収容所と比べてまだ生活がマシと言えども、捕虜という立場であり、生きていくのに十分な生活が出来ているとは言えない。人々の欲望は寝ることと食うことばかりであった。

(5)日本人抑留者の回想

モンゴル抑留を経験した方の記録がいくつか残っている。その中には壮絶な日々や、その中で浮かびあがってくる人間性が描かれてた。

①    労働に関して

何れを選んでも重労働ばかりで、強い体力を必要とするが、一日平均1500キロカロリー、すなわち6~8歳児の熱量しか得られず、栄養失調となっていた当時の日本兵にとっては過重な仕事で、モンゴル側の要求するノルマの半分でも、その達成の困難さを感じていた。しかし、兵隊の中には、怠け者や無責任な者がいて仕事を放棄する者がいた。そんな者のために、二時間、三時間、時には夜の十一時までも食事なし、休みなしで残業させられる。酷寒三十度を超える冬の夜などは、飢えと寒さに耐えることだけでやっと、仕事など手につかない。無意味な時間延長だ。

②    日本人に関して

日本人は根が極めて勤勉で実直なため、モンゴル政府にとっては使いやすかったのではないか。彼らは日本人の性格や心理状態を理解していくことで、上手に日本兵を利用した。また、一部の将兵は、現場関係の要人に取り入って、己の地位を築いたり、保全しようとした。日本兵の心理をつかんで、現場監督はアメと鞭の使い分けによって作業効率の向上を図った。ノルマを達成すれば増食、未達成の場合は減食。日本人はこの政策に操られ一喜一憂しながら、捕虜生活を繰り返した。

③    抑留中に見えてくる人間の本性

エリート族だった者が顔も洗わず、垢だらけで、コソ泥の如く何かを漁って歩き、物乞いをする一方で、学歴は大したことがない者でも賎しいことはせず、身なりは清潔にし、行動へ厳正に、集団の秩序は固く守って己を律している。

これらの記録からは、抑留した日本人たちの、絶望、怒り、呆れというものが伝わってくる。私たちには想像するのも難しい生活であり、安易に想像するのもこの抑留者の方々に失礼であると思う。しかし、想像を絶するようなこの死と隣り合わせの日々の中でも、生きていくために考えることを忘れず、自分が日本人であるということの誇りを持ち続けた人々に畏敬の念を抱くのみである。。

(6)モンゴル抑留の特徴

このモンゴル抑留には、その中身が通常の捕虜としては異例な点や、シベリア抑留の一部だとしても、シベリア抑留とは異なる点が見られる。

まず一つ目に、ハルハ河戦争を除けば、モンゴルは日本軍による直接的な長期の侵略を受けていないにも関わらず、日本人に二年間強制労働をさせたことが挙げられる。ソ連に抑留されていた日本人の帰還は1946年12月からであり、モンゴルに抑留されていた日本人を帰還させるための準備もその直後とされている。しかし、実際はモンゴル側がソ連政府に要請し、1947年秋まで捕虜たちに強制労働を続けさせた。

そして二つ目は、一国の首都の建設を日本人抑留者が担ったことだ。静粛によって当時の人口約75万人のうちの2万人を失ったモンゴルにとって、約12000人の日本人抑留者の存在は大きく、モンゴルの戦後の国家建設のために絶対的に必要な労働力であった。現在ウランバートルにある、大学、オペラ劇場、外務省なども日本人抑留者の手によって建てられたものである。

(7)モンゴル抑留の結果

日本人のモンゴル抑留は1945年の10~11月、日本人捕虜がソ連からモンゴルに約12000人引き渡されたことから始まり、うち、約1600人が1947年11月の帰国までに死亡した。モンゴルにおける死亡率は約13%で、シベリア抑留の約10%よりも高い。ここまでの高い死亡率を出してしまった原因として以下のものがあげられる。

l モンゴル当局が捕虜を抑留した経験がなかったこと。

l 過当な労働時間で、ノルマ達成に捕虜を駆り立てたこと。

l 食糧事情の悪さを改善できなかったこと。

l 低水準な医療業務。

l 日本人にとって慣れない気候環境。

多くの捕虜が栄養失調症や赤痢(赤痢:下痢、血便、腹痛などをもたらす大腸の感染症)

などの病気にかかったが、ウランバートルで最もよいアムラルト病院でさえ医療器具や医療品が不足していた。加えて、収容所の幹部は、見た目では分からない体調不良は仮病とみなしていた。本来、訓令では「捕虜に対する医療サービスは、収容所に付設される医務室の器具用品を用いて行うが、捕虜の中の医療要員の助力も受ける」と定められていたにも関わらずだ。また、モンゴルに抑留された日本人に与える食糧や衣服などの生活品などもソ連軍から得ることになっており、モンゴル政府はソ連政府にその分の代金を払っていたが、モンゴル側が受け取ったものは収容された日本人捕虜の定員分に満たなかった。死亡した者の中には、病死した者だけでなく、逃亡した者、自殺した者もいた。そして先ほど述べた吉村隊の事件のように同じ日本人の手によって殺された日本人も多くいたはずである。このように、ソ連よりも死亡率が高かった原因は、モンゴル側が捕虜を受け入れる体制が整っていなかったこと、日本人の慣れていない気候の中の過度な労働、衛生・医療が行き届いていなかったことなどが挙げられる。

(8)日本人モンゴル抑留という歴史への解釈

抑留者が働いていた石切り場

この歴史への解釈は様々である。高い死亡率を出すこととなったモンゴル抑留は日本からのまなざしは抑留者が受けた被害に向けられているが、一方で日本の戦争の責任だとする声もある。日本が満州国を建国したことにより、警戒したソ連がモンゴルのエリート2万人を「日本のスパイ」などと疑いをかけ大静粛を行った。そのため、モンゴル側は労働者の補填のために日本人捕虜の動員が必要になったということだ。しかしそれが結果的に、モンゴルの連合国側への参加要因にもなり、モンゴルの独立と国家建設に至ったとも言われている。また、モンゴル抑留はモンゴル人による日本人のイメージに変化を与えたともされる。戦時中のモンゴル人の日本に対するイメージはソ連の影響を大きく受け、共産主義が広まっているモンゴルにおいて、日本は脅威であった。モンゴル人が日本人を「怪物」のように思っていたその時代に日本人捕虜がモンゴルに連れてこられ、モンゴル人の興味を引いたことは間違いないだろう。モンゴルの一部の人々は日本人と直接関わったことで、日本人が勤勉で、教養があり、規律正しいことを知った。反対に、共産主義の国ということでモンゴルを警戒していた日本人も、モンゴル抑留を経て、苦境の中ではあったが、モンゴル人の心の広い人柄や、モンゴルのどこまでも広がる草原の美しさを帰国を果たしたのちも、心の中に残すこととなった。1966年、日本人の墓参り代表団がモンゴルの日本人墓地を訪れ、亡くなられた兵士たちに手を合わせた。このとき、彼らに出会ったモンゴル人も、日本や日本人を身近に思うようになった。モンゴルに抑留した方々やその遺族からしたら、モンゴルという土地は辛い記憶が呼び覚まされる場所であるはずだが、彼らが第一線に立って両国の交流回復に尽力したのである。この日本人のモンゴル抑留という出来事が、日本人とモンゴルの互いのイメージに変化を与え、それがきっかけとなって両国がお互いに近づいたことで、現在の友好な関係が築かれるに至ったというのは結果論ではあるが、紛れもない事実であると言える。

(8)現代のモンゴルにおける日本人のモンゴル抑留という歴史

日本において、モンゴル抑留の歴史はあまり知られていないが、一方でモンゴルにおいてはどうなのか。今年度、コロナ禍において実際にモンゴルに行くことは叶わなかったが、モンゴル国立大学生とのメールでのやり取りを行うことが出来た。その中で私は、モンゴルの若者の日本人に対するイメージ、また、そのイメージと日モンゴル間における歴史への関係性、そして日本人のモンゴル抑留という歴史の認知度について尋ねた。すると相手の女性は驚くほど丁寧で高レベルな日本語で返事をくださった。その答えとしてはこうである。日本人がモンゴルに抑留した歴史について、知っているモンゴル人はまず少ない。日本兵がモンゴルに来たのは1945年であり、その時代にウランバートル市に住んでいた、もしくは生まれた人たちが、日本兵たちのしていた仕事や住んでいた場所などに関する情報を知っているかもしれないが、それ以外の人々は学校でもこの歴史について学ぶこともないし、ましてや歴史の先生ですら知らなかったとのことだ。

 また、彼女は「ノゴーン・ノール」というモンゴルの首都ウランバートル市に近くにある場所の写真を送ってくれた。かつて抑留されていた日本兵たちが、山の岩を砕く仕事をしていた場所である。元々は、建物や水が無く、全て岩だったが、抑留されていた日本兵たちが岩を砕いて、このようになったという。ここで砕かれた岩はモンゴルの都市建設に使われた。

 日本人のモンゴル抑留という歴史は、日本でも学校で学ぶことはなく、私も最近まで知らなかった。知らない若者が多い中、モンゴルの大学生である彼女にこの歴史の存在を教えてくれたのは日本人の女性である。このままでは存在が薄れてしまうこの歴史の存在を広めようとしている方がいること、そして今回この歴史に関しての貴重な情報をくれた相手側の女性に感謝の意を示したい。

(9)おわりに

1947年捕虜たちは日本に帰国、命を失った約1600名の遺骨はモンゴルの土地に残されることとなった。残された遺骨に手を合わせに日本人がモンゴルを訪れるようになったことは、その後の両国の交流を促し、1972年には外交関係を樹立するに至った。今回この歴史を論文にまとめるにあたって本をいくつか読んだが、人によって抑留中に体験したことや感じたことは異なり、どれを取り上げるか悩んだりもした。現代においても未だ解明されていない点が多いこの歴史ではあるが、抑留した日本人が死を間近に感じながら、帰国を果たせるのかもわからない絶望の日々を必死に生き延びようとしたことは紛れもない事実である。このモンゴル抑留がシベリア抑留よりも高い死亡率を出してしまったことは、モンゴル側が捕虜を管理するということに対して未熟で、それによって日本人が極限まで追い込まれていったとするのは妥当であると思う。しかし、モンゴル側の管理の曖昧さを利用して自分の安全な立場を保障するために、同胞である日本人を多く死に追いやった日本人がいたことも忘れてはならない。この日本人のモンゴル抑留という歴史において、両国が互いを責めるようなことは出来ないと考える。

現在、日本とモンゴルは友好関係を築き、モンゴルにおいては、日本に関心を持ち日本語を学ぶ学生が多くいる。彼らが日本に関心を持ってくれるようになったきっかけの多くは、日本のアニメや漫画である。私たち若者の多くは、現在の日本、モンゴルの姿だけを見てお互いを判断しているだろう。過去を振り返れば、日本モンゴル間の歴史は決して良いものではないかもしれない。しかし、過去の歴史があってこその現在の両国の関係性である。日本とモンゴルがなぜ、現在ここまでの友好関係を築くまでに至ったのか、また、友好関係樹立に尽力した人々の背景に関心を持つ人が増えることで、互いをより近くに感じることになるだろう。今後も、日本とモンゴル、両国のさらなる友好関係の発展を願っている。

(参考文献)

・胡桃沢耕司(1983)『黒パン俘虜記』文藝春秋

・ボルジギン・フスレ(2017)『日本人のモンゴル抑留とその背景』三元社

・井上賢(2000)『モンゴル人民共和国 ウランバートル抑留記』東兄弟印刷所

・東出昇(1991)『草原の果てに』北の街社

・モンゴル通信『戦後75年』国営モンツァメ通信社文です。